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小沢昭一 唐来参和(とうらいさんな)

商品番号:23565A1
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DVD
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俳優・小沢昭一が“引退興行”と称して、18年演じた一人芝居を初DVD化。

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全国津々浦々、660回の旅公演・・・
俳優・小沢昭一が“引退興行”と称して、18年演じた一人芝居を初DVD化。
1988年2月26日、新宿・紀伊國屋ホールにて収録。


とうてい追いつくことの出来ない話術。そして人間への理解から来る芝居の奥行き。小沢昭一という人がどれだけ凄かったかが、この往年の一人芝居「唐来参和」で砂漠に雨がしみるようにわかる。
  いとうせいこう(作家・クリエーター)

■一瞬も見逃せない教科書
いとうせいこう (作家・クリエーター)

 名優にして俳人、また稀代のラジオパーソナリティでもあった小沢昭一は1982年、自分一人だけが座員である「しゃぼん玉座」を設立。そして、その年からいきなり“引退公演”を始め、その後、なんと18年間の長きにわたって一人芝居を演じ続けた。
 右の記述を簡単に読み飛ばしてもらっては困る。座員がたった一人? 設立直後に引退公演? なのに18年? この反骨、ユーモア、いかがわしさ、潔さのすべてに小沢昭一の生き方が反映しているのだから。
演目は盟友の井上ひさし「戯作者銘々伝」から『唐来参和』。江戸の戯作家・参和のまさに“反骨、ユーモア、いかがわしさ、潔さ”に満ちた人生を一人語りで描いた作品である。
当然素直には始まらない。第一部はいきなり小沢のフリートークである。時事ネタなど縦横にはさみながら、しかしこれが聞かせる。名人芸である。つまりは落語の枕のもじりなのだが、笑わせる感心させる考えさせる、そして何より語り手を好きにさせる。するすると客の心に入っていって愛されてしまう。
芸人というものの根本がここにある。とうてい私などには真似出来ないが、しかし片鱗だけでも身につけたいと願う。まず第一に、かわいらしい。と同時に自由な発言をする。観客とは別の世界で生きているのだとわからせる。だから客は知らぬ間に憧れてしまう。
客をつかみきっておいて、小沢昭一はまたするすると第二部に入る。まさかと思う人物設定である。それまでの語り手は役の中に移動し、ある意味で客を突き放す。好きな人につれなくされた一瞬の不安と共に、客は小沢の世界を追いかけざるを得ない。そこに第一部でのフリートークで知った江戸時代の知識がじわじわ効いてくる。
これをよくDVD化してくれたものだと思う。名人たちの芸は古来よりどのような構造を持ち、どのような手練手管で実行されてきたかの、これは一瞬も見逃せない教科書である。
だから芸人はみな観なければならない。
そして観客も名人とはこのレベルなのだと知っておかなければ、芸人を育てられない。よい芸を楽しめない。
いや、俺も芸人のはしくれだから、買い占めて誰にも観せない方がいいのかもしれない。

■唐来参和について考える
矢野誠一

小沢昭一畢生の代表作『唐来参和』だが、これも「ひとり芝居」という通常のカテゴリーに組入れてしまっていいのだろうか。告別式で弔辞を述べた加藤秀俊は、前人未到というより未踏の成果をあげた小沢昭一の放浪藝研究を、社会学でも、民俗学でも、藝能学でもない、小沢学だと規定したのだが、その伝で言うなら『唐来参和』は、「ひとり芝居」というより「小沢芝居」そのものだった。
小沢学は、役者というおのがなりわいに対する見直しの姿勢から出発したものだ。津津浦浦に及んだ探索の旅から、いにしえの藝能者たちが、社会から隔絶された居所での生活者となることで身につけた固有の藝に、わざおぎの原点を見出したことが、それ以後の役者小沢昭一の方向を大きく変えた。
俳優座スタジオ劇団新人会、俳優小劇場、芸能座と、劇団という組織のアンサンブルによって成立する「演劇」から抜け出して、よりパーソナルな「藝」におのれを投入するべく、しゃぼん玉座を主宰した背景には、「小沢学」に実った放浪藝の調査研究の成果があったのは間違いない。通算10,414回になるラジオ番組『小沢昭一の小沢昭一的こころ』、新宿末廣亭10日間出演とならんで、660回の上演を記録した舞台『唐来参和』は、小沢昭一のパーソナルな藝への熱い思いが集大成されたものだが、そこに至る過程に1983年に逝った畏友早野寿郎との共同作業のあったことを忘れてはなるまい。
俳優座養成所二期生として共に学んだ早野寿郎は、新人会、俳優小劇場にあって、小沢昭一とは演出者・俳優という関係を大きくこえた同志として提携しながら、パーソナルな藝に立脚したユニークな舞台を創り出した。小沢昭一が師である千田是也から唯一褒められた自作講談『小山内薫伝』、新劇寄席と銘打った公演で上演した田中千禾夫『とら』、三越劇場の三越名人会の舞台にもあがった永井荷風『榎物語』などなど。これらは、江戸時代の戯作、落語、小説や論文などの、脚色作業なしの舞台化、さらには無戯曲、無演出、無観客という実験的舞台を提唱していた早野寿郎の協力なしには実現不可能だった。
導入部の吉原概論から、酒が入ると俄然天の邪鬼ぶりを発揮して、あげくは恋女房を吉原に売りとばしてしまう戯作者唐来参和の人生まで、かつての女房で?粉指づくりに身をやつす老婆のひとり語りで展開される『唐来参和』。従来の「ひとり芝居」の概念ではとらえきれない、まったくの新機軸である「小沢芝居」の演じ手の語り口だが、これまた踏襲されてきた新劇的演技術の物差しでは、到底計り切れないスケールを有している。無論それは、小沢昭一固有の藝だ。
幼い頃から慣れ親しんできた落語、講談、浪花節に加えて、萬歳、浄瑠璃、説教節から紙芝居やからくり、大道香具師の口上にいたる、ありとあらゆるこの国の話藝を内蔵した、小沢昭一の役者的教養に裏打ちされたものなのだ。
そして、「小沢芝居」に実った『唐来参和』の成果を観ることなく旅立った、早野寿郎のかげも見出すことができる。

■ごあいさつ  小沢昭一 (公演パンフレットより再録)
「しゃぼん玉座」は私の引退のための劇団--引退興行その一、その二……と重ねましてチョンにしたいと、以前、設立に当たって御挨拶申しあげました。
それは、かつて、わが愛するストリップ界に、「引退興行」の看板をかかげて何年間も全国を巡回していたというオネェサンがいらっしゃいまして、実はそれを真似させてもらったのでありますが、私、元来、本心を冗談半分に、口から出まかせを本気めいて申しあげる癖(へき)があるようでありまして、なに、自分でも、その虚実の間に踏み迷うのであります。
けれども、引退はシャレでも冗談でもございませんで、真剣なんでありますよ。ただ、では、いつ?何故?……と問いつめられたりするのが私はイヤで、それに何事も言わぬが花、なんとなくウサンクサクもしているのでありますが、出来ることなら一ぺん辞めて「ふつうのおじさん」に戻って、で、忘れられた頃、名前を変えてカムバックする……なんていうのが理想ですね。じっさい、若い時、うっかり芸名をつけなかったのが大失敗でしたので、こんどは……ま、なんでもいいんですが……「都三十郎」なんていう名前で、六十なかば頃から、前衛劇でもやりますか。ハハハハ。(フーム、中村伸郎さんはイイセン行ってるなぁ)
とまれ、辞めたいならば、サッサと黙って辞めりゃいいんでありまして、ノーガキは不要であります。
世に停年というものがありまして、肉体的、精神的、あるいは社会的にヒトのシゴトに限度ありと決めているようです。ちかごろはその限度も延長になってりしてもおりますが……。
私、もう、その年齢であります。いえ、私共のシゴトに停年なんてございません。停年どころか、役者に年齢なんてないよ、という方も沢山いらっしゃいまして、なるほど、なかにはバケモノという特例もないことはないのですが、私は、そういうふうに考えたり意気ごんだりするのがニガテで、「ヒトは年齢だけのもの」と思い定めるタチなんであります。むしろ、停年のない稼業なればこそ、「停年」を静かに、しかと受けとめたいのであります。
こんなふうに申しあげますと、バカに私がショボクレテルようにお思いかもしれませんが、実は、このところ気力充実、元気旺盛。さぁ、どう、円熟、枯淡とは反対の、しかも出来ることなら一道貫徹しない人生を送ろうかと意欲満々なんでありますね。
しかも舞台(しごと)の方は、自分で言うのもなんですが、エンディングがかかっているせいか、若い時と違って気合いが入っております。もっとも、肩の力だけは、もうそろそろ抜けたらなあと思っておりますが……。
お客さまの、御ひいき、お引き立てには、ほんとうに、涙とともに御礼申しあげます。

■小沢昭一の二つの冒險  井上ひさし (公演パンフレットより再録)
この、四十枚足らずの小説を芝居小屋にかけてみよう、と最初に言い出したのは小沢昭一さんである。聞いて私はほとんど?然とした。小説と戯曲の二足の草鞋をはいているので、思いついた素材や題材が小説という形式を欲しているのか、戯曲という表現で陽の目を見たがっているのか、私にはよく分っているはずだった。唐来参和の生涯は一人称小説で表現するのが最もふさわしいと考えたからこそ小説にしたのである。それを戯曲に化けさせてみよう、と小沢昭一さんは言う。とすると、私のやり方はまちがっているのだろうか。そう思って、?然としたのだった。そう言えば、小沢昭一さんは、かつて、永井荷風の小説の戯化に大成功した実績がある。小沢昭一さんは、荷風の小説を、脚色という作業抜きで、いきなりそのまま舞台にのせて、みごとな演劇的時・空間を創り出したのだ。小沢昭一さんにはきっとなにか成算があるにちがいない。そこで小沢昭一さんの「成算の舟」に私は安心して乗る気になった。
演出の長与孝子さんは演劇界では新人だけれど、ラジオドラマの世界では知らぬ人のない大立者である。安部公房さんがまだ新人作家のころ、いちはやくその才能を見抜いて、彼に連続ラジオドラマを依頼した。私はそのドラマを聞いて育ったうちの一人である。このように長与孝子さんは才能を掘り起こす才能に恵まれた演出家で、小沢昭一さんも無名時代から彼女と仕事をしている。フランキー堺、(作者としての)小野田勇、露口茂、藤村有弘……、みな然り。私もまたその末席を汚がす。小沢昭一さんは、そこで今回、彼女の舞台演出家としての才能を掘り出す方に回った。
小説をそのまま舞台にのせるという冒険、そして新しい舞台演出家を世に出そうという冒険、この二つの冒険に小沢昭一さんが成功しますように。

■あら、私困った……  長与孝子 (公演パンフレットより再録)
私達は、日本人でありながら、意外に日本の古典文学には、うといようです。いや、「私達」と云うより「私が」と云った方がより正確ですが、ともかく日本の古典文学、中でも江戸文学と云うものを、どうも馬鹿にしていた嫌いがあります。黄表紙とか洒落本など、つぶさに読んだことがない。どちらかと云うと、西欧文学の方が身近でした。これは、明治以来の西欧志向の中で、近代西欧文学のテーマ主義とか分析的論理主義、心理描写などに毒されすぎていたのかもしれません。今度舞台化された、この「唐来参和」と云う作品は、井上ひさし氏著「戯作者銘々伝」(中央公論)の中の一篇ですが、四年前にラジオで放送し、この時初めて唐来参和と云う作家の存在を知りました。パロディを得意とする、いやパロディだけしか書かなかった作家で、いかにも井上さん好みの、奇想天外な虚構性と、発想の滑稽さには、目を見張らされました。そして、この参和の性癖を推理し、それを要として一つの逆転劇を創出したこの井上作品は、そのあまりにも巧みな物語構成が、読み返す度に私を新たな興奮にひきこむのです。参和の女房「お信」の一人語りで進められるこの小説を、ラジオでも演じられた小沢昭一氏が、そのままの形で舞台化されたわけですが、一人芝居と云うより一人舞台と云った方がいいような、小沢さんの多彩な芸に接して、私は又々目を見張らされています。小沢さんの芸については、一寸やそっとで書き尽せるものではありませんが、話芸の名手と云われる小沢さんには、一種特有のリズムがあるように思います。所謂、西洋音楽にみられる計算可能なリズムではなく、独特のリズムなのです。今回は、江戸吉原の言葉や、黄表紙についての資料と云ったものを、「札」とか「スライド」の形でとり入れましたが、それを巧みに生かし乍ら、抒情に流れず、独特のリズムを作ってゆく小沢さんの話芸に、日々新たな発見を見出すのです。そう云う次第で、井上さんに触発され、小沢さんに教えられ、スタッフの人々の助力に支えられて出来上がったこの舞台なのです。

【出演】
小沢昭一

作:井上ひさし/『戯作者銘々伝』(中公文庫)より「唐来参和」
演出:長与孝子

【全20ページ解説書封入】
解説:矢野誠一、いとうせいこう
・公演パンフレットより再録/文:小沢昭一、井上ひさし、長与孝子
・『唐来参和』上演記録付

*DVD
*COLOR/NTSC/4:3/リージョンコントロール:ALL/Dolby Digital


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